1980年代の日本は、経済的な成功を背景に、国際社会で存在感を急速に高めた時代だった。日本製の自動車や電気機器が世界市場を席巻し、日本は世界有数の経済大国へと成長した。1988年には世界最大の債権国となり、日本の企業や金融機関が海外へ進出する動きも目立つようになった。
しかし、経済的な豊かさが増す一方で、日本社会には新たな矛盾も生まれていた。アメリカとの貿易摩擦が激しくなり、日米の軍事協力が強化されるなかで、日本がどこまで軍事的な役割を担うべきかが問われた。政府が進める行政改革や教育改革に対しては、効率性や競争力を高めるという期待と、国民の権利や民主主義が損なわれるのではないかという懸念が並存した。
また、豊かな社会というイメージの陰では、労働者の生活、外国人や少数者の人権、環境問題、医療技術の進歩に伴う生命倫理、教育現場の混乱など、経済成長だけでは解決できない課題が広がっていた。
1980年代を理解するうえで重要なのは、日本が成功したかどうかだけではない。経済大国になった日本が、その力を何のために使い、どのような社会をつくろうとしたのかという問いである。
1. 「西側」の一員としての日本――経済大国に高まる国際的な要求
日本の経済力が世界を変え始めた
1980年代、日本経済は国際社会で大きな存在感を持つようになった。日本の国民総生産(GNP)は世界全体の約一割を占め、工業製品の輸出は増加を続けた。海外に保有する資産も拡大し、1988年には日本は世界最大の債権国となった。
これは、日本が戦後の復興期を経て、資本や技術を海外に供給する側へと立場を変えたことを意味していた。戦後の日本は、アメリカを中心とする国際経済秩序のなかで輸出を伸ばし、海外市場を利用しながら産業を発展させてきた。ところが、1980年代になると、日本製品の競争力が高まったことで、今度は日本の輸出拡大が他国の産業や雇用に影響を及ぼすようになった。
とくにアメリカでは、日本製品との競争が国内産業を圧迫しているという不満が強まった。アメリカは財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」を抱え、1985年には経常収支の赤字が過去最大の規模に達していた。アメリカ国内では、日本の輸出攻勢を問題視し、市場開放や輸入制限などを求める声が強くなった。
ここには、経済大国になった日本が直面する新しい難しさがあった。日本企業にとって、品質の高い製品を開発し、価格を抑えて海外に販売することは合理的な経営判断である。しかし、輸出先の国では、国内企業の売上や雇用が減少する原因として日本製品が批判される。個々の企業の成功が、国際的な政治問題に発展するようになったのである。
「日米は運命共同体」という発想
経済摩擦が深刻化する一方、冷戦下の国際政治では、アメリカと日本の軍事・外交面での協力も強まっていた。
1981年にアメリカ大統領に就任したロナルド・レーガンは、「強いアメリカ」の復活を掲げた。ソ連に対して強硬な姿勢を取り、軍備拡張を進めるとともに、アメリカ経済の再生を目指して政府部門の縮小や民間経済の活性化を重視した。
アメリカは同盟国にも、軍事的・経済的な負担をより多く担うよう求めた。日本もその例外ではなかった。1981年5月に訪米した鈴木善幸首相は、日米関係を同盟関係として明確に位置づける共同声明を発表した。続いて1983年1月、中曽根康弘首相はレーガン大統領との会談後、日米は「運命共同体」であるという考えを示した。
日本にとって、日米同盟は安全保障の重要な基盤だった。しかし、アメリカとの協力を強めることは、軍事面での役割を拡大することにもつながった。経済大国としての力を、どの程度まで安全保障に振り向けるべきかという問題が、改めて浮かび上がったのである。
貿易摩擦が示した経済大国の責任
1980年代の日米関係は、協力と対立が同時に進む複雑な関係だった。安全保障では同盟関係を強めながら、経済面では市場開放や輸出入の不均衡をめぐって激しく対立した。
アメリカからは、牛肉やオレンジなどの農産物市場を開放するよう求める圧力がかかった。日本国内では、農業関係者が輸入拡大による影響を懸念し、政府に慎重な対応を求めた。国際的な約束を守ることと、国内の産業や生活を守ることの間で、日本政府は難しい判断を迫られた。
この構図は、国際化が進む社会の特徴をよく表している。輸出を増やし、海外市場から利益を得る国は、自国の市場をどこまで開放するのか、他国の産業や生活にどのような影響を及ぼすのかという問題にも向き合わなければならない。経済力が大きくなるほど、国際社会から求められる責任も大きくなるのである。
2. 「不沈空母」路線の政治――中曽根政権と戦後日本の転換
「戦後政治の総決算」が掲げられた背景
1980年代の政治を特徴づけたのが、中曽根康弘政権による「戦後政治の総決算」というスローガンだった。
1980年6月、衆議院と参議院の同日選挙が行われた。その選挙戦の最中に大平正芳首相が急死したが、自民党は選挙で勝利し、政権基盤を立て直した。後を継いだ鈴木善幸内閣を経て、1982年に自民党総裁選で勝利した中曽根康弘が首相に就任した。
中曽根政権は、行政改革や財政再建を進め、政府の役割を見直す一方、日米同盟を軸とする安全保障政策を強化しようとした。国家のあり方を根本から見直し、日本を国際社会でより積極的な役割を果たす国へ変えようとしたのである。
政府は、民間の活力を引き出し、行政の無駄を減らすことによって、経済や社会に新しい活力を生み出そうとした。しかし、行政改革は単なる役所の合理化にとどまらなかった。国家の役割や公共サービスのあり方、国民生活と政府との関係を再構成する試みでもあった。
日本列島を「不沈空母」にする構想
1983年1月の日米首脳会談後、中曽根首相は日本列島を「不沈空母」にするという趣旨の発言をした。日本列島をソ連の攻撃に対する防衛線とし、宗谷・津軽・対馬の三海峡を防衛上重要な地点として活用するという考え方だった。
この発言は、当時の安全保障政策の方向を象徴していた。日米の軍事協力が強まるなか、日本は自国の領土を守るだけでなく、アメリカを中心とする西側陣営の防衛戦略に積極的に組み込まれようとしていた。
その後、アメリカ軍と自衛隊の共同演習が活発になり、1983年10月には初の日米共同統合実動演習が実施された。自衛隊の装備も拡充され、1986年12月には、1987年度予算案で防衛費がGNPの1%枠を超えることになった。
防衛費の1%枠は、長く日本の防衛政策をめぐる政治的な目安となっていた。その枠を超えることは、予算上の変化であると同時に、戦後日本の安全保障政策が新たな段階に入ったことを示す象徴的な出来事だった。
核兵器をめぐる不安と住民の反発
日米の軍事協力が進む一方で、核兵器や軍事施設をめぐる不安も強まっていた。
1981年には、アメリカのライシャワー元駐日大使が、核兵器の持ち込みについて日米間に口頭了解が存在し、核兵器を搭載した米艦船が日本に寄港していると発言した。核兵器を日本に持ち込ませないという政府の説明と、実際の運用との間に食い違いがあるのではないかという疑念が深まった。
基地問題も、住民の生活に直接関わる問題として現れた。東京都の三宅島では、米軍艦載機の夜間離着陸訓練、いわゆるNLPの基地建設計画が浮上した。住民や村議会は受け入れに反対したが、1987年には防衛施設庁が関連施設の建設を強行し、反対する島民が逮捕される事態に至った。
この問題は、国の安全保障政策と地方自治の衝突を示していた。政府にとっては国防上の必要性があっても、住民にとっては騒音、事故への不安、自然環境の破壊、地域産業への影響が現実の問題となる。国が掲げる「国益」と、地域で暮らす人々が守ろうとする生活が、必ずしも一致するわけではなかった。
安全保障を考えるとき、国全体の防衛力だけでなく、政策の負担を誰が引き受けるのか、住民の意思をどのように尊重するのかという問いも避けられない。
軍事協力の強化に対抗した平和運動
軍事的な緊張が高まるなか、核兵器の廃絶と平和を求める運動も広がった。
1981年から82年にかけて、日本では反核・軍縮を訴える署名活動が展開され、核兵器廃絶を求める署名は、資料の記述によれば8,200万人を超えた。1981年2月に来日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も、広島の経験を踏まえ、戦争は避けられない運命ではなく、人間の選択によって防ぐことができるというメッセージを発した。
当時の世論調査では、戦争への不安を感じる人が増加していた。自治体でも反核・軍縮を求める意見書の採択が進み、平和を地域行政の課題として位置づける動きが現れた。1990年には東京都中野区で平和行政に関する条例が成立している。
こうした動きは、政府の安全保障政策に対する単純な賛否を超えた意味を持っていた。国際情勢が厳しくなるほど、軍事力を強めることが安全につながるのか、それとも軍拡競争を激しくするのかという問いが重くなる。国の安全を軍事力だけで考えるのではなく、外交、国際協力、住民の生活、核兵器廃絶などを含めて考える必要性が意識されていたのである。
1987年には米ソ間で中距離核戦力(INF)全廃条約が調印された。冷戦の緊張はなお続いていたものの、軍縮を求める国際世論と米ソ双方の事情が、核軍備を制限する合意を生み出した。1980年代は、軍事的な対立が強まる一方で、平和を求める国際的な連帯も大きな力を持った時代だった。
3. 幻想の中の「豊かさ」――活力ある社会の裏側
「豊かな国」という評価と生活の実感
日本経済が成長し、海外資産が増え、輸出が拡大すると、日本は世界でも豊かな国の一つとして評価されるようになった。しかし、国の経済力が高まることと、国民一人ひとりが豊かさを実感できることは同じではない。
政府が掲げた「活力ある社会」という理念は、民間企業の活動を活発にし、経済を成長させ、社会の停滞を打破しようとするものだった。一方で、効率性や競争力を重視する政策が進むと、働く人々は企業の成果を高めるために、より大きな負担を背負うこともあった。
経済指標が改善しても、労働時間が長く、仕事に追われ、住宅や余暇に十分な時間を割けないのであれば、生活の豊かさは限定される。企業の生産性や国際競争力を高めることが優先される社会では、個人の時間や健康、家族との生活が後回しになる危険がある。
1980年代の日本を考える際には、経済成長の成果を否定する必要はない。しかし、成長の数字だけを見て社会全体が豊かになったと判断することもできない。何を豊かさと呼ぶのか、その豊かさが誰に届いているのかという視点が必要だった。
効率性と競争が働く人々に与えた影響
企業が国際競争力を維持するには、生産性を高め、品質を改善し、コストを抑える必要がある。1980年代の日本企業は、こうした課題に積極的に取り組み、現場の改善活動や技術革新を進めた。
しかし、効率性の追求が強まると、働く人は成果や能力を絶えず評価されるようになる。仕事の成果を高めることが職場での評価や雇用の安定につながる一方、競争についていけない人は不利な立場に置かれる可能性がある。
また、企業の経営が優先される社会では、労働者の権利や健康が企業の都合に従属する危険もある。会社が業績を上げることは、雇用や所得を支える重要な条件である。しかし、業績向上のために人間の生活を過度に犠牲にするなら、企業の成功と社会の幸福の間には隔たりが生まれる。
この矛盾は、1980年代に限られた問題ではない。技術革新や経済の国際化が進むほど、社会は効率性を高める方法を求める。その一方で、効率性の向上が人々の生活をどのように変えるのかを検証しなければならない。経済の活力と人間らしい生活を両立させることが、成熟社会の課題になっていった。
「単一民族」神話の陰で見えにくくされた人々
豊かな日本というイメージは、日本社会が均質であるという見方とも結びついていた。日本人は同じ文化を共有し、同じ価値観を持つという「単一民族」的な発想が、社会を説明する枠組みとして広く用いられていたのである。
しかし、実際の日本社会には、異なる民族的・文化的背景を持つ人々が暮らしていた。在日朝鮮人をはじめとする人々は、植民地支配の歴史や戦後の制度、社会的な偏見の影響を受けていた。日本社会が経済的な豊かさを増しても、差別や排除が自動的に解消されるわけではなかった。
「みんなが同じ社会の一員である」という表現は、連帯を促す場合もある。しかし、その言葉が社会の違いを見えなくし、少数者が抱える問題を周縁に追いやるなら、平等を実現するうえで障害になる。
社会の豊かさを測るには、平均所得や経済規模だけでなく、異なる背景を持つ人々がどのように扱われているか、権利や機会が公平に保障されているかを見る必要がある。1980年代の日本は、経済大国としての自信を強めながら、社会の内側に存在する不平等を改めて問い直す必要にも直面していた。
4. 生存と生命のゆくえ――環境、地域、科学技術が突きつけた問題
経済発展の陰に残る環境問題
日本は高度経済成長期に深刻な公害を経験し、その後、環境対策や公害規制を進めてきた。しかし、1980年代末になると、環境問題は地域社会の公害にとどまらず、地球規模の問題として意識されるようになった。
オゾン層の破壊、地球温暖化、酸性雨、海洋汚染、熱帯林の減少、砂漠化などは、一つの国のなかだけで完結する問題ではない。大気や海洋の流れを通じて影響が国境を越え、ある地域での経済活動が、遠く離れた地域の環境や人々の暮らしを脅かす可能性がある。
経済先進国となった日本も、こうした問題と無関係ではなかった。工業製品を大量に生産し、エネルギーや資源を利用し、海外から原材料を調達する経済構造は、国内外の環境に影響を与える。さらに、経済援助や企業の海外進出を通じて、日本の経済活動は発展途上国の産業や自然環境とも深く結びついていた。
ここで問われるのは、経済発展の利益を受け取る国と、その環境的な負担を引き受ける地域が一致しているのかという問題である。豊かな暮らしを支える資源や製品がどこから来て、どのような環境負荷を伴っているのかを考えなければ、持続可能な社会を実現することはできない。
原子力への期待と安全性への不安
エネルギー問題への対応として、原子力発電も重要な政策課題となった。石油などの輸入資源への依存を減らし、安定した電力供給を確保するという観点から、原子力発電には大きな期待が寄せられていた。
しかし、原子力発電には事故や放射性物質の管理など、重大な安全上の課題がある。1980年代には国内の原子力施設で事故が起こり、安全性をめぐる不安が強まった。資料に記録された世論調査でも、1986年には原発推進への賛否が逆転したとされ、1990年の調査では原発への不安や心配を表明する人が多数を占めていた。
原子力をめぐる問題は、技術的な安全性だけで判断できるものではない。事故の危険を誰が負うのか、発電による利益を誰が得るのか、将来世代にどのような負担を残すのかという社会的な問題でもある。
科学技術が高度化するほど、人間は自然の力を利用し、生活を便利にすることができる。しかし、その技術がもたらす危険や長期的な影響を完全に予測できるとは限らない。技術を導入する判断には、経済性だけでなく、安全性、透明性、住民の意思、将来世代への責任が必要になる。
地域社会と国家政策の衝突
1980年代には、国の政策と地域住民の生活が衝突する問題も目立った。軍事施設や原子力施設の立地は、国全体の安全保障やエネルギー供給という観点から計画される。しかし、実際に施設の近くで暮らす人々にとっては、騒音や事故への不安、環境への影響、地域産業の将来が切実な問題となる。
国が「国益」を理由に計画を進めるとき、住民の意思や地方自治が軽視される危険がある。住民が反対していても、国の政策が優先されるのであれば、地方自治は形式的なものになりかねない。
民主主義は、選挙によって国の代表を選ぶことだけではない。政策の影響を受ける人々が情報を得て、意見を表明し、決定過程に参加できることも重要である。地域社会が抱える問題を、国家全体の利益という言葉だけで処理してしまえば、そこに暮らす人々の権利や尊厳が損なわれる可能性がある。
生命科学の進歩が問い直した「生」と「死」
1980年代には、医学や生命科学の進歩によって、人間の生と死をめぐる考え方にも大きな変化が生まれた。
1983年、日本で初めて体外受精によって生まれた子どもが誕生した。体外受精は、不妊に悩む人々に新しい可能性を開く技術だった。一方、受精卵の保存や利用、第三者の子宮を利用する生殖補助技術など、従来の家族観や生命観だけでは答えにくい問題も浮かび上がった。
医療技術は、病気を治療し、妊娠や出産を支援する力を高める。しかし、技術的に可能になったことが、すべて社会的・倫理的に許容されるとは限らない。子どもの権利、親の意思、医療者の責任、社会的な合意をどのように考えるのかが重要になった。
死の定義をめぐる議論も進んだ。人工呼吸器などの生命維持技術が発達すると、心臓が停止する前に脳の機能が失われる状態をどのように判断するかが問題になった。臓器移植を実施するには、臓器提供者の死を適切に判定する必要がある。1985年には厚生省の研究班が脳死判定基準を発表し、脳死を人の死とみなすべきかどうかをめぐる議論が続いた。
ここには、医学だけでは答えられない問いがある。人間の死を何によって判断するのか。生命を維持できる場合、どこまで治療を続けるべきなのか。本人の意思や家族の判断をどう尊重するのか。こうした問題には、医学、法律、倫理、宗教、哲学など、複数の分野からの検討が必要だった。
さらに1980年代には、エイズ(AIDS)への社会的な不安も広がった。日本では1985年に初めてのエイズ患者が認定された。病気に対する知識が十分でないなか、感染経路についての誤解や偏見が生まれ、血液製剤を通じて感染した血友病患者なども差別に苦しんだ。
病気への対策には、治療法の研究や感染予防だけでなく、正確な情報の提供、患者の人権の保護、差別の防止が欠かせない。生命を守るための医療と、人間の尊厳を守る社会のあり方が、同時に問われるようになったのである。
5. 揺らぐ人間像――教育、歴史認識、情報化社会
教育改革が描いた未来像
1980年代の日本では、次の時代を担う人間をどのように育てるかが重要な政策課題になった。国際化や情報化が進み、社会が成熟段階に入るなかで、従来の教育制度を見直す必要性が強く意識された。
中曽根内閣は1984年、内閣直属の諮問機関として臨時教育審議会を設置した。同審議会は1987年までに四次にわたる答申を提出し、教育の自由化、多様化、国際化、情報化、生涯学習などを提言した。
その背景には、明治以来の日本が欧米諸国に追いつくことを目標にしてきた時代から、独自の社会のあり方を考える段階へ移ろうとしているという認識があった。教育は、既存の知識を教え込むだけでなく、変化する社会に対応できる人間を育てる役割を期待されたのである。
しかし、教育改革には難しい問題もあった。教育の自由化や多様化が進めば、個人の選択肢が広がる可能性がある一方、学校や子どもたちが競争にさらされる度合いが強まることも考えられる。教育の成果を効率性や学力だけで評価すれば、子どもの個性や成長の速度、家庭環境の違いが見落とされる危険もある。
教育改革の目的は、社会が求める人材を育成することだけではない。子ども一人ひとりが尊重され、自分で考え、他者と協力し、社会に参加する力を身につけることも重要である。教育を経済競争力のための手段に限定せず、人間の成長と社会の民主性を支える制度として考える必要があった。
歴史教科書問題が示した過去への責任
1980年代には、日本が過去の戦争をどのように理解し、アジア諸国とどのような関係を築くのかという問題も、改めて国際的な争点になった。
1982年、日本の歴史教科書の検定をめぐり、中国や韓国から批判が起こった。日本の侵略の歴史が教科書の記述によって歪められているという指摘があり、日本政府は記述の是正を約束した。
1984年には韓国大統領が初めて来日し、日韓関係の歴史をめぐる問題が改めて注目された。その後も、政府要人による日本の植民地支配や侵略戦争に関する発言が、近隣諸国との摩擦を生んだ。1986年には藤尾正行文部大臣が日韓併合などについて問題となる発言をし、批判を受けて辞任した。1988年にも、日中戦争に関する発言が外交問題になった。
これらの問題が示すのは、過去の歴史が単なる教科書の記述にとどまらないということである。歴史認識は、被害を受けた人々の記憶や尊厳、国家間の信頼、現在の外交関係に結びついている。自国の歴史をどのように語るかは、その国が過去の行為にどのような責任を感じ、将来どのような関係を築こうとしているのかを示す問題でもある。
日本が経済大国として国際社会で影響力を持つようになったからこそ、近隣諸国との歴史的な関係をどう理解し、共有するかが重要になった。経済的な協力を深めるだけでは、歴史をめぐる不信が解消されるとは限らない。相手の記憶や経験に向き合う姿勢が、国際的な信頼を支える条件となる。
学校現場に広がった問題と「新人類」
教育改革が進められる一方、学校現場では校内暴力、登校拒否、いじめなどが深刻な問題として認識されるようになった。子どもたちは未来を担う存在として期待されていたが、その成長を支える学校や家庭が、必ずしも安心できる場所になっているとは限らなかった。
同時に、1980年代の若者は「新人類」と呼ばれ、従来の世代とは異なる価値観や行動様式を持つ存在として注目された。戦後の高度経済成長を直接経験した世代と、豊かさが一定程度定着した社会で育った世代とでは、仕事や組織、家族、社会への向き合い方に違いが生まれていた。
こうした変化を、若者の意識が変わったという一言だけで説明することはできない。社会の豊かさ、家族のあり方、メディア環境、教育制度、雇用の見通しなど、若者を取り巻く条件そのものが変化していたからである。
学校の問題を考える際にも、子ども個人の性格や努力だけに原因を求めるのではなく、学校の制度や人間関係、競争のあり方、家庭や地域社会の変化を含めて考える必要がある。社会が子どもに期待する役割と、子どもが実際に経験する生活との間に、どのような隔たりがあるのかが問われていた。
情報が増える社会で、どう主体性を保つのか
1980年代には、コンピュータや通信技術の発展を背景に、「情報化社会」という言葉が広く使われるようになった。情報を集め、処理し、活用する能力は、経済活動や行政、教育など、さまざまな分野で重要性を増していった。
情報化は、人々が知識を得る機会を広げ、社会の仕組みを効率化する可能性を持っていた。しかし、情報が増えれば、人間が自動的に賢くなるわけではない。大量の情報が流通する社会では、何が重要なのか、どの情報を信頼すべきなのか、自分は何を基準に判断するのかを考える力が必要になる。
また、効率性や競争が社会全体を覆うと、人々は成果を上げることや他者より優位に立つことを優先しやすくなる。情報技術が便利になっても、人間が自分の判断を失い、周囲の評価や情報の流れに振り回されるなら、社会の成熟につながるとは限らない。
1980年代に浮上した情報化社会の課題は、情報をどれだけ多く持つかだけではなく、情報をどのように理解し、判断し、行動に結びつけるかという問題だった。技術が進歩するほど、人間が主体性を保ち、効率性や競争原理に支配されすぎないための教育や社会制度が重要になる。
6. 1980年代の日本が残した問い――経済力の先に何を目指すのか
経済的な成功は、社会全体の成功なのか
1980年代の日本は、工業製品の輸出を拡大し、海外資産を増やし、世界経済における存在感を強めた。日本企業の生産技術や品質管理は高く評価され、経済大国としての自信も深まった。
しかし、経済的な成功の裏側では、貿易摩擦、軍事的な役割の拡大、地域住民との対立、環境問題、生命倫理、教育現場の混乱、差別や歴史認識の問題などが浮上していた。こうした課題は、経済成長の成果だけでは解決できないものだった。
経済が豊かになれば、社会の問題も自然に小さくなると考えることはできない。豊かな社会であっても、人権が十分に尊重されないことはある。科学技術が進歩しても、技術をどのように使うべきかという倫理的な判断は必要になる。国家の力が増しても、地域住民の意思を無視してよいことにはならない。
つまり、経済大国としての成功と、民主的で人間らしい社会の実現は、別々に考えることのできない課題だった。
国家の力と個人の権利をどう両立させるか
1980年代には、行政改革や安全保障政策の強化などを通じて、国家のあり方を見直す動きが進んだ。一方で、国家の政策が強く打ち出されるほど、国民の権利や地域の自治、言論の自由がどのように守られるのかが重要になった。
たとえば、国防のために必要とされる施設であっても、住民の意思を無視して建設を進めることが当然に認められるわけではない。教育改革を進める場合も、政府が求める人材像を一方的に押しつければ、子どもの個性や教育の自主性を損なう可能性がある。
民主主義は、国家が何も決められない状態を意味するものではない。社会全体の課題に対応するためには、政府が政策を決定し、実行する必要がある。しかし、その権限が強まるときこそ、情報公開、議論への参加、異なる意見の尊重、権力の監視が必要になる。
国家の力をどのように使い、どこで制限するのか。経済の活力を高めながら、個人の自由と人権をどう守るのか。1980年代の政治や社会をめぐる争点は、現代にも通じる問題を含んでいた。
成熟社会に必要なのは、豊かさを問い直す視点
1980年代は、日本が「欧米に追いつく国」から「世界に影響を与える国」へと変わっていった時代だった。しかし、経済的な成功は、日本社会の将来像を自動的に決めてくれるわけではなかった。
国際社会でどのような役割を果たすのか。軍事力と平和外交をどう組み合わせるのか。経済成長の利益をどのように分配するのか。環境を守りながら技術を利用するにはどうすればよいのか。教育や情報技術を、人間の主体性を高めるためにどう生かすのか。こうした問いに答えるには、経済成長だけを社会の目標とする発想から一歩進む必要があった。
1980年代の日本は、経済大国になったからこそ、社会の豊かさを改めて定義しなければならない段階に入っていた。豊かさとは、単に多くの製品を生産し、所得を増やし、海外に資産を持つことだけではない。人々が安心して暮らし、自分の意見を表明し、異なる背景を持つ人々と共存し、将来世代に深刻な負担を残さないことも、社会の豊かさを構成する重要な要素である。
1980年代の歴史が示しているのは、経済力を高めることと、その力を人間の幸福や平和に結びつけることは、同じ課題ではないという事実である。日本は経済大国としての地位を確立する一方、その力をどのような社会の実現に使うのかという問いを抱えていた。その問いは、技術革新や国際競争がさらに進んだ現代においても、なお重要な意味を持ち続けている。
