高度経済成長によって、日本人の暮らしは大きく変わった。戦後の長い物不足を経験した人々にとって、食べ物や衣服を手に入れることが生活の中心だった時代から、家電製品を買い、流行の服を着て、休日に旅行やレジャーを楽しむ時代への変化は、まさに生活革命だった。
1960年代には、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭に普及し、やがてカラーテレビや自家用車、クーラーが豊かさの象徴になっていった。テレビは家庭に世界のニュースや娯楽を届け、広告は人々に新しい商品やライフスタイルへの憧れを抱かせた。コンピューターや電子技術の発達は、企業の生産活動だけでなく、計算、予約、通信など、日常生活を支える仕組みも変え始めた。
こうして登場したのが、商品を大量に生産するだけでなく、大勢の人々が同じ情報に触れ、似た流行を追い、共通の消費文化を楽しむ「新大衆社会」である。
ただし、大衆社会の成立は、単純に国民全体が豊かになったことを意味するわけではない。人々の選択肢が増える一方で、何を欲しいと思うか、何を格好よいと感じるか、休日をどう過ごすかといった感覚まで、広告やマスメディア、企業の販売戦略によって形づくられるようになった。自分の好みで選んでいるつもりでも、その「好み」自体が社会によって生み出されている可能性がある。
新大衆社会の歴史は、豊かさが広がる歴史であると同時に、消費、情報、余暇が人々の意識や行動を変えていく歴史でもあった。
1 大量消費社会の到来――家庭に広がった新しい豊かさ
「三種の神器」が変えた日常生活
1960年代前半、家庭生活の変化を象徴したのが、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫である。これらは「三種の神器」と呼ばれ、多くの家庭が手に入れたいと願う商品になった。
テレビは、ニュースやスポーツ、ドラマを家庭に届けた。洗濯機は、手作業で衣類を洗う負担を軽減した。冷蔵庫は、食品を一定期間保存できるようにし、買い物や調理の計画を変えていった。どれも単なる便利な道具ではない。家事に費やす時間や労力、家族が同じ場所で過ごす時間、食材を購入する頻度など、生活の仕組みそのものに影響を与えた。
家電製品の普及は、家事の合理化を進めた。洗濯や食品保存にかかる手間が減れば、別の活動に使える時間が生まれる。テレビがあれば、映画館や劇場に出かけなくても映像による娯楽を楽しめる。新しい商品は生活を便利にするだけでなく、人々が時間をどう使い、何を楽しみ、何を豊かさと感じるかを変えていった。
もっとも、家電製品が普及したからといって、家事が一律に軽くなったわけではない。家庭内の役割分担が変わらなければ、機械が家事を助けても、その負担の多くを担う人の生活が根本から変わるとは限らない。技術の進歩が生活を改善するためには、道具の普及だけでなく、家族関係や働き方も関係していた。
「三種の神器」から「3C」へ
生活水準が上がるにつれて、豊かさの象徴も変化した。1960年代後半には、カラーテレビ、乗用車、クーラーが「3C」と呼ばれ、新しい消費生活を象徴するようになった。
カラーテレビは、白黒の映像とは異なる臨場感を家庭にもたらした。東京オリンピックのような大きなイベントは、テレビを買い替えたり、新たに購入したりする動機にもなった。自家用車は、移動の自由を広げ、家族で遠方へ出かけることを身近なものにした。クーラーは、暑さへの対処を変え、都市生活の快適さを高める商品として存在感を増した。
ここで注目したいのは、商品が単に機能を提供するだけでなく、社会的な意味を持つようになったことだ。カラーテレビや自家用車を持つことは、便利さを得ることに加え、「生活が豊かになった」「自分も中流の暮らしをしている」と感じることにつながった。
商品は、実用性とともに、憧れやステータスを伝えるようになったのである。何を持っているかが、生活水準や社会的な位置を測る目安になっていった。
食生活と「インスタント時代」
冷蔵庫の普及は、食生活にも変化をもたらした。缶詰、ハム、ソーセージなどの加工食品に加え、冷凍食品の種類も増え、食品を長く保存しやすくなった。即席ラーメンやインスタントコーヒーも広まり、短い時間で食事や飲み物を用意する暮らしが定着していった。
こうした変化は、忙しい生活を支え、食事の準備にかかる負担を軽減する面があった。また、保存や流通の技術が発達すると、季節や地域による食材の制約も変化する。食べ物を得ることが季節や土地に強く結びついていた暮らしから、工業的に加工された食品を全国どこでも購入できる暮らしへと移っていった。
一方で、便利な食品の普及は、食事に対する価値観も変えていく。家庭で時間をかけてつくる料理が大切にされる一方、手早く食べられること、保存できること、均質な味をいつでも楽しめることも重視されるようになった。食生活の変化は、単なる食品技術の進歩ではなく、時間の使い方や家庭のあり方の変化でもあった。
ファッションは「つくる」ものから「売り出す」ものへ
衣類の世界でも、大きな変化が起きた。戦後の物不足の時代には、衣服はまず身につけるための実用品だった。しかし、生活水準が向上すると、衣類は個性や流行を表現する商品へと変わっていった。
1960年代には、既製服の市場が拡大し、プレタポルテ、アイビールック、ミニスカートなど、時代を象徴するファッションが登場した。若者向けのブランドや販売戦略も発展し、衣服を選ぶことが、単に必要なものを買う行為ではなく、自分らしさや時代感覚を表現する行為になっていった。
ここで重要なのは、ファッションの流行が、自然に生まれて広がるだけではなくなったことである。企業は、商品を製造するだけでなく、広告や雑誌、テレビなどを通じて商品のイメージをつくり、消費者がそれを欲しいと思うように働きかけた。衣服の色や素材、デザインそのものだけでなく、それを身につける人がどのように見えるか、どんな生活を送っているように感じられるかまでが、販売戦略の対象となった。
新商品が生活様式を変え、新しい生活様式がさらに別の商品への需要を生む。大量消費社会では、この循環が次第に強まっていった。
2 広告とマスメディア――欲望はどのようにつくられるのか
テレビが家庭と世界を結びつけた
日本のテレビ放送は1953年に始まった。当初、テレビ受像機は非常に高価で、一般家庭が簡単に購入できるものではなかった。そのため、人々は街頭テレビや電器店の店頭に集まり、スポーツ中継などを見た。テレビは、個人の家庭に入る前から、人々が同じ映像を共有する新しいメディアとして注目されていた。
その後、テレビの普及は急速に進んだ。1962年には受信契約が1,000万件に達し、普及率も大きく上昇した。1960年代半ばにはカラーテレビ放送の全国ネットワークが整い、映像を通じてニュースや娯楽を楽しむ生活が広がっていった。
テレビの大きな特徴は、離れた場所で起きた出来事を、多くの人々がほぼ同じ時刻に映像として見られることだった。新聞やラジオも重要な情報源だったが、テレビは現場の映像を届けることで、視聴者に強い臨場感を与えた。
その力を印象づけた出来事の一つが、1963年11月のジョン・F・ケネディ米大統領暗殺である。日米間の衛星中継実験が行われた際、世界を揺るがすニュースが飛び込んできた。遠いアメリカで起きた事件が、日本の視聴者にも映像や速報を通じて伝わり、世界の距離が縮まったことを実感させた。
1972年の浅間山荘事件では、警察と連合赤軍の攻防が長時間にわたって生中継された。視聴者は、事件の進行をその場で見守るような感覚を味わった。テレビは、情報を伝えるだけでなく、人々が事件をどのように体験し、記憶するかにも影響を与えるようになっていった。
テレビ広告が消費の仕方を変える
テレビの普及は、広告のあり方も変えた。企業にとってテレビは、多くの人々に同じ商品イメージを届けられる強力な宣伝手段だった。特に、企業の広告収入に支えられる民間放送局が発展すると、番組と広告が結びついたメディア産業が拡大した。
テレビ広告は、商品の機能や価格を説明するだけではなく、短い時間で視聴者の注意を引き、印象に残ることを目指すようになった。広告の時間は短縮され、音楽やギャグ、個性的な動き、印象的な映像を活用する表現が広がった。広告そのものが娯楽として楽しめるようになり、商品の説明よりも、広告が生み出す雰囲気やイメージが重要になる場面も増えていった。
1967年に話題となったレナウンの「イエイエ」のテレビ広告は、ファッションと音楽、映像表現を結びつけた広告文化を象徴する例として知られる。広告は商品を知らせるためのものから、時代の感覚や流行をつくるものへと変化していった。
この変化によって、消費者は必要な商品を探して買うだけでなく、広告によって新しい欲望を刺激されるようになった。まだ持っていない商品が生活をどう変えるか、商品を持つことで自分がどう見えるか、どんな気分を味わえるか。広告は、こうした想像を通じて消費への意欲を高めた。
もちろん、消費者が広告に一方的に操られていたわけではない。人々は商品を比較し、広告を批判し、自分の暮らしに必要なものを選んできた。それでも、広告が欲望の対象を提示し、流行を広め、商品の社会的な意味をつくる力を強めたことは、新大衆社会の重要な特徴だった。
「消費は美徳」という価値観の広がり
戦後の物不足の時代には、節約や倹約、物を大切に使うことが生活上の重要な価値だった。ところが、経済成長によって商品が大量に供給されるようになると、消費を拡大することが経済を支える行為として肯定的に語られるようになった。
商品を買う人が増えれば、企業の売上が伸び、生産が増え、雇用や所得の拡大につながる。消費は個人の楽しみであると同時に、経済成長を支える役割を持つようになった。「消費は美徳」という考え方が広がった背景には、こうした経済の仕組みがあった。
しかし、消費が社会的に奨励されるようになると、買う必要のないものまで欲しくなったり、新しい商品を持っていないことに引け目を感じたりする可能性も生まれる。商品が生活を便利にする一方で、商品を持つことが豊かさや幸福の基準になれば、消費は終わりのない競争にもなりうる。
この問題は、消費者の権利や企業の販売姿勢を問い直す動きにもつながった。人々が消費の主体として自分の生活を考え、企業の宣伝や商品供給を批判的に検討することが重要になっていったのである。
大衆メディアの拡大と地域の声
テレビや新聞、雑誌、週刊誌が広く普及する一方で、地域に根ざした小規模な情報媒体も生まれた。いわゆる「ミニコミ誌」は、全国向けの大手メディアでは取り上げられにくい地域の問題を伝え、住民が意見を交わす場になった。
たとえば、地域の主婦たちが始めた『田無・保谷どんぐり』は、平和、暮らし、子どもの教育など、身近な課題を話し合うための媒体として発展した。ごみ問題、選挙、教育、自然保護、行政の民主化など、地域住民の生活に直結する問題を取り上げ、住民監査請求や請願などの市民活動にも結びついていった。
大手メディアが社会全体に共通の情報を届けるのに対し、ミニコミ誌は、地域の具体的な経験や小さな声を共有する役割を果たした。情報が大量に流通する社会では、誰もが同じ情報を受け取るだけでなく、自分たちに必要な情報を自ら発信し、地域の課題を議論することも重要になっていった。
新大衆社会は、巨大なメディアが人々の意識を形づくる社会であると同時に、市民が自分たちの情報発信の場をつくろうとする社会でもあった。
3 コンピューターの発達――情報を処理する社会へ
大型計算機から身近な電子機器へ
1960年代の技術革新は、テレビや家電製品だけでなく、情報を処理する仕組みにも大きな変化をもたらした。その中心にあったのがコンピューターである。
当初のコンピューターは大型で高価であり、主に企業や研究機関などで利用されていた。大量の計算や事務処理を高速で行えるため、企業経営、製造業、金融、交通など、さまざまな分野で業務の合理化に役立った。
日本企業は、アメリカで発達した技術を導入し、国内の電子技術の蓄積を生かしながら応用開発を進めた。半導体や集積回路(IC)などの技術が発達すると、電子機器は小型化し、性能が高まり、価格も下がっていった。
この変化を身近に示したのが電子式卓上計算機、つまり電卓だった。1960年代半ばに登場した初期の電卓は非常に高価で、一般家庭が気軽に購入できるものではなかった。しかし、トランジスターからIC、さらに大規模集積回路(LSI)へと技術が進歩すると、電卓は小型化し、価格も急速に低下した。1970年代初めには、数万円台の製品が市場に登場し、企業や商店だけでなく、個人にも利用が広がっていった。
高価な計算機が、技術革新によって身近な道具へと変わる。この過程は、先端技術が一部の専門家や大企業だけのものではなく、広く社会に普及していく時代の始まりを示していた。
企業の合理化を支える情報処理
コンピューターの重要性は、計算を速くすることだけではない。企業が扱う情報の量が増え、経営の規模が拡大するにつれて、販売、生産、在庫、会計、物流などを総合的に管理する必要が高まった。コンピューターは、こうした複雑な業務を処理し、企業がより広い範囲で事業を展開するための基盤になった。
1960年代には、国鉄の座席予約システムや、銀行のオンライン処理など、情報技術を利用したサービスも登場した。電話の全国自動即時通話化も進み、遠く離れた場所との連絡や取引を、以前より速く行えるようになっていった。
こうした技術は、消費者の目には見えにくい。しかし、切符の予約、銀行取引、企業の受発注などが円滑に進むためには、背後で情報を正確かつ迅速に処理する仕組みが欠かせない。情報技術は、生活を直接便利にする製品であると同時に、社会全体の活動を支えるインフラへと変わっていった。
技術の発達は、仕事の進め方や組織のあり方も変える。情報を迅速に処理できるようになるほど、企業はより多くのデータを使って経営判断を行い、業務を標準化し、作業の効率化を進められる。一方で、情報システムを導入するだけで、働く人々の問題や組織の矛盾が自動的に解決するわけではない。技術をどのような目的で利用し、そこで生じる変化をどう調整するかが、次第に重要な課題となっていった。
技術革新が生んだ新しい産業
コンピューター産業の成長は、日本の産業構造の変化とも結びついていた。日本企業は、海外から導入した技術を国内の需要や生産現場に適合させ、電子機器の開発と普及を進めた。政府による国産メーカーの育成策も、国内のコンピューター産業を支える要因になった。
高度経済成長期の技術革新は、石油化学、鉄鋼、造船、自動車、電子工業など、多くの産業で生産性と国際競争力を高めた。そこでは、新しい技術を発明する力だけでなく、技術を改良し、製品に組み込み、品質や価格の面で競争力を持たせる力も重要だった。
情報技術は、産業の成長を支える道具から、社会のあり方を変える基盤へと変化していった。テレビが情報を一斉に届け、コンピューターが情報を大量かつ高速に処理する。この二つの変化は、後の情報ネットワーク社会につながる重要な土台になった。
ただし、情報機器が普及し、処理能力が高まるだけで、人間中心の情報社会が実現するわけではない。情報がどのように管理され、仕事や人間関係にどう影響し、技術を使う人々の自由や生活をどう守るのか。情報化の進展は、こうした社会的な課題も新たに生み出していった。
4 「余暇」の誕生――働くだけではない人生へ
経済成長が生み出した自由時間への期待
経済成長によって所得が増え、家事の負担を軽減する家電製品が普及すると、人々の生活には、それまでとは異なる時間の使い方が広がっていった。旅行やスポーツ、娯楽、趣味など、仕事や家事以外の活動に使う時間が、社会的な関心を集めるようになったのである。
1960年代には、「レジャー」という言葉が流行語として広く使われるようになった。本来、レジャーは生活に必要な労働から解放された時間や、その時間を活用することに関係する概念である。しかし当時は、レジャーウェア、レジャー施設、レジャー産業といった言葉が次々と生まれ、余暇そのものが新たな市場として注目されるようになった。
所得が増え、生活必需品を手に入れることが以前より容易になると、人々は物を買うだけでなく、時間を使って楽しむことにも価値を見いだすようになる。旅行に出かける、スポーツをする、映画や舞台を鑑賞する、趣味を学ぶ。こうした活動は、生活を維持するために必要な行為とは異なる、人生を楽しむための選択肢として広がっていった。
ただし、余暇が増えることと、余暇を自由に使えることは同じではない。仕事が忙しく、休暇を取りにくい社会では、自由時間があっても、十分に活用できないことがある。また、余暇が旅行や買い物など、費用のかかる活動に偏れば、所得の違いが楽しみ方の違いにもつながる。余暇の拡大は、豊かな社会の到来を示す一方、時間の使い方をめぐる新たな問題も含んでいた。
マイカーが広げた生活圏
余暇の拡大を後押ししたのが、自家用車の普及と道路網の整備だった。1960年には約44万台だったマイカーは、1968年には400万台を超える規模へと拡大した。高速道路などの整備も進み、家族や友人と自動車で遠方へ出かけることが、次第に身近なものになっていった。
自動車は、単なる移動手段ではない。公共交通機関の運行時刻や路線に縛られず、行きたい場所へ自分たちの都合で移動できることは、生活圏の拡大を意味した。休日に海や山へ出かける、遠くの観光地を訪れる、家族で買い物に行く。こうした行動が広がることで、観光やレジャーに関係する産業も成長していった。
遊園地、プール、ボウリング場、ゴルフ場、ホテルなどが各地に整備され、余暇を楽しむための施設が増えた。旅行商品も充実し、1967年には日本航空が世界一周路線の営業を開始した。海外旅行はまだ誰にとっても気軽なものではなかったが、国外へ出かけることが、特別な冒険から現実的な選択肢へと近づいていった。
こうした変化は、余暇が個人や家庭の楽しみであると同時に、産業として組織化されていく過程でもあった。人々が休日を楽しみたいと考えると、企業はその希望に応える商品やサービスを提供する。新しいレジャー施設や旅行商品が登場すると、今度はそれが人々の新たな欲望を生み出す。消費と余暇が互いに需要をつくり出す循環が形成されたのである。
余暇は「休む時間」にとどまっていた
一方、当時の日本では、余暇を人生の大切な一部として捉える考え方が十分に定着していたとは言い難い。仕事を第一に考える価値観が強く、余暇は働くために疲れを取る時間、あるいは一時的に気晴らしをする時間として扱われる傾向があった。
そのため、旅行や行楽のように、休日にまとめて楽しむ活動は広がったものの、日常生活のなかで継続的に学び、創造し、地域の人々と交流するといった余暇のあり方は、まだ十分に広がっていなかった。余暇の過ごし方も、観光地への集中や高額な消費に傾きやすく、誰もが自分の関心に応じて時間を豊かに使える社会が完成していたわけではない。
この点は、経済成長期の日本社会を考えるうえで重要である。所得が増え、休日に使えるお金ができても、仕事中心の価値観が強ければ、余暇は生活の中心にはなりにくい。生活を豊かにするためには、商品や施設が増えるだけでなく、自由な時間を持つ権利や、その時間を自分らしく使うという意識も必要になる。
余暇の拡大は、経済成長の成果だった。しかし、余暇を本当の意味で生活の豊かさにつなげるためには、働き方や休暇制度、地域の文化活動、学び直しの機会など、社会の仕組みそのものを変えていく必要があった。
5 新大衆社会の光と影――豊かさは何を変えたのか
共通の流行が社会を結びつける
新大衆社会では、多くの人々が同じ商品を使い、同じテレビ番組を見て、似た流行を楽しむようになった。テレビ広告や雑誌は新しいファッションや商品を広め、家電製品や自動車は家庭生活の標準を変えた。人々は、以前よりも共通の消費文化を持つようになっていった。
こうした共通性は、社会を結びつける役割を果たした。遠く離れた地域に住む人々でも、同じニュースを見て、同じ流行語を使い、同じ商品に憧れることができる。全国規模の市場が広がり、企業は大量生産によって商品を供給し、消費者はそれを全国各地で購入できるようになった。
しかし、共通の流行が広がることは、個人の好みが多様になることと必ずしも同じではない。テレビや広告が特定の生活様式を魅力的に描けば、人々はそれを豊かさの標準と考えるようになる。商品を持っているかどうか、流行に乗っているかどうかが、生活の満足度や社会的な評価と結びつく可能性も生まれる。
新大衆社会は、多くの人々に選択肢を提供した一方で、何を選ぶべきかという基準を社会の側から提示する力も強めていった。
豊かさの標準が新たな競争を生む
「三種の神器」や「3C」は、生活が向上していることを実感させる象徴だった。しかし、豊かさの標準が社会に定着すると、それを持つことが新たな目標になり、持っていないことが不足として感じられる場合もある。
かつては、衣服や家電製品を手に入れられること自体が大きな喜びだった。やがて、より新しい商品、より高性能な製品、流行に合った衣服を持つことが求められるようになる。消費は生活上の必要を満たすだけでなく、他人との比較や社会的な評価にも関わるようになった。
このような変化は、企業にとって新しい需要を生み出す機会となった。商品の機能を改良するだけでなく、新しいイメージや流行を提示することで、消費者に買い替えを促すことができるからである。新商品が登場し、それが新しい生活の標準となり、さらに次の商品が求められる。この循環が、大量消費社会を支えていった。
一方、消費を続けることが豊かさの条件になると、物を持つことと幸福であることの区別が曖昧になりやすい。新しい商品を買っても、すぐに次の流行が現れれば、満足は長続きしないかもしれない。豊かさを物の量だけで測ることには限界があるという問題は、消費社会が発展するほど重要になっていった。
情報化は人々の意識を変える
テレビ、新聞、雑誌、広告、コンピューターなどが発達すると、人々の生活は情報と切り離せなくなっていった。情報は、何が起きているかを知る手段であると同時に、何を欲しいと思うか、何を重要だと考えるか、どのような生活を理想とするかを形づくる力を持つようになった。
この変化には、明るい面もある。人々は遠くの出来事を知り、新しい知識や文化に触れ、さまざまな商品やサービスを比較できるようになった。地域の小さな情報媒体を通じて、住民が行政や社会の問題について意見を交わすこともできた。
しかし、情報が大量に流通する社会では、刺激的な映像や広告、流行のイメージが人々の注意を集める一方、何が本当に重要なのかを落ち着いて考えることが難しくなる場合もある。情報の量が増えることと、情報を批判的に読み解く力が高まることは別の問題である。
新大衆社会の成立は、情報を受け取る人々の数が増えたというだけではない。情報が消費や娯楽と結びつき、人々の欲望や価値観を動かす社会が形成されたことを意味していた。
6 新大衆社会が残した課題――便利さの先にある豊かさ
生活を便利にする技術と、人間の生活
高度経済成長期に普及した家電製品や自動車、コンピューターは、人々の生活を大きく便利にした。家事の負担は軽減され、移動できる範囲は広がり、情報を得たり仕事を処理したりする速度も高まった。大量生産と大量消費を基盤とする社会は、戦後の物不足から脱却し、日常生活の水準を引き上げた。
しかし、便利な道具が増えれば、それだけで生活が充実するわけではない。家電製品によって家事が効率化されても、家庭内の役割分担が変わらなければ負担は残る。自動車によって遠くへ行けるようになっても、仕事が忙しすぎれば余暇を楽しむ時間は限られる。情報が増えても、それを吟味する時間や知識がなければ、流行や宣伝に振り回される可能性がある。
技術や商品は、人々の生活を豊かにする手段である。重要なのは、便利さや効率の向上を、安心して暮らせること、自分の時間を持てること、学びや交流を楽しめることにつなげる仕組みを整えることである。
消費者から市民へ
新大衆社会では、人々は消費者として市場に参加するだけでなく、生活環境や情報のあり方を自分たちで考える市民としての役割も担うようになった。企業の宣伝をそのまま受け入れるのではなく、商品の安全性や品質、販売方法を確かめること。地域の問題について情報を集め、住民同士で話し合い、行政に働きかけること。こうした行動は、社会が大規模化し、商品や情報が大量に流通する時代において、ますます重要になっていった。
地域のミニコミ誌が示したように、大手メディアから情報を受け取るだけではなく、自分たちの生活に必要な情報を発信し、身近な問題を議論することも可能だった。大量の情報が一方向に流れる社会だからこそ、住民自身が情報の送り手となり、地域の課題を自ら解決しようとする活動には大きな意味があった。
新大衆社会は、消費者としての人々を拡大した。しかし、社会をよりよくするためには、消費者として選ぶ力だけでなく、市民として考え、判断し、行動する力も必要になる。
「豊かな社会」とは何か
1960年代から1970年代にかけて、日本では商品が増え、生活水準が向上し、テレビや広告を通じて全国的な大衆文化が広がった。コンピューターや通信技術は、産業と生活を支える新たな基盤をつくり、レジャー産業は人々の余暇を新しい市場へと変えていった。
その一方で、消費を促す仕組みが強まり、流行やイメージが人々の欲望を動かすようになった。余暇が広がっても仕事中心の価値観は根強く、情報が増えても、その意味を主体的に判断することは簡単ではなかった。
新大衆社会の歴史が教えるのは、豊かさには複数の尺度があるということだ。商品を持つこと、便利なサービスを利用できること、情報にアクセスできることは、確かに生活の可能性を広げる。しかし、それだけで人々が自由に生き、充実した時間を過ごし、自分の価値観に沿って暮らせる社会が実現するわけではない。
経済成長によって生まれた豊かさを、どのように生活の質へと結びつけるのか。情報や広告に囲まれながら、どのように自分の判断を保つのか。消費や余暇を、単なる気晴らしや競争ではなく、人生を豊かにする活動としてどう位置づけるのか。
新大衆社会の出現は、日本人が「物が足りない社会」から「物や情報があふれる社会」へと移った歴史である。同時に、豊かさを何によって測るのか、便利さの先にどのような暮らしを求めるのかという問いが、新たに生まれた時代でもあった。
