マス・コミュニケーションはコミュニケーションのひとつの段階であるが、対人(個人間) コミュニケーションとどのような相違点があるだろうか。

マス・コミュニケーションの場合は、まず第一は送り手が一人ではなく、集団・集合体である。 企業体としての活動である。 受け手は一人で はなく不特定多数である。 新聞社は日々の自社の発行部数を把握しているが、実際にどれだけの人々に読まれてい るかは分からない。 一部の新聞が四人家族の四人に読まれているのか、二人に読まれているのか明らかでない。

第二は送り手と受け手との間に大きな複雑な機械的な媒体が存在している。 特殊な技術の介在である。 この機械によって大量のコピーが生産される。マス・コミュニケーションのマスはマス・ピープル(マスィズ=the masses、大衆)のマスであるとともにマス・プロダクション(大量生産)ないしマス・ディストリビューション(最大伝達)のマスでもある。

第三は第二と関連するが、コミュニケーションの流れが圧倒的に送り手から受け手への一方通行で、相互作用的でない。 コミュニケーションを始めるイニシエーターとしての送り手の立場が圧倒的に力を持っている。送り手、 受け手の役割が固定化している。 両者の距離が空間的にも時間的にも離れているという意味で間接的、非人格的で もある。もちろん新聞には投書欄や読者相談室のような窓口はある。 テレビ局にも視聴者センターのような窓口を持っているところもある。 しかし、ある新聞のある記事に反論を書いて投書欄へ送っても、それが掲載される保証 はない。選択の権限はあくまでも送り手側が握っている。今日、プレスが第四権力と言われるように、立法、行政、司法と匹敵するほどの力を持っていると言えよう。

第四は、マス・コミュニケーションがもたらすメッセージが画一化する傾向がある点である。個人の間のコミュ ケーションではその内容はさまざまであるが、マス・コミュニケーションの場合は時に画一的で非個性的で、ステレオタイプになりがちである。これは同一コピーを不特定多数の人々にすばやく、能率よく伝達するためである。 新聞記事は五つのW(いつ、誰が、どこで、何をした。なぜか)とひとつのH(どのように)によって成り立っていると言われている。この型にはめ込むとメッセージを流しやすいとの考えがあるからである。発信する対象も受け手の平均値的な階層をめざす。このため大衆的な文化が生じる背景となる。

そもそもマス・コミュニケーションという言葉は日本には第二次世界大戦後に入ってきた。1945年11月、ロンドンで発表されたユネスコ憲章の中で、ユネスコはマス・コミュニケーションのあらゆる手段、方法によって、 諸国の間の相互理解を増進する仕事に協力する旨をうたっている。これがきっかけになって、マス・コミュニケーションという言葉が全世界的に広がっていった。

要するにマス・コミュニケーションとはごく簡単に言えば、ある精神内容をもつ記号を機械的な媒体を通じて、 大量に、不特定多数の人々に伝達する過程を意味する。

ラスウェルのモデル

マス・コミュニケーションの機能について考える際、問題点を整理するのに役立つのはラスウェル(Harold D. Lasswell)の 「社会におけるコミュニケーションの構造と機能」と題する論文である。この論文の冒頭で、彼は、コミュニケーション行為を記述するうえで便利な方法は 「誰が 何について、どのような媒体を通して、誰に向かって、どのような効果をもって述べるか」という質問に答えることであると説明している。

つまり、「誰が」について研究することはコントロール分析になり、「何を述べるか」について研究するのは内容 分析になる。「媒体」つまりチャンネルについて研究することはメディア分析であり、「誰に対して」という点を研 究するのは受け手分析になり、「どのような効果」について研究するのは効果分析になる。 効果とは送り手側から見 れば効果だが、受け手側から見れば影響とも言える。

このように、彼のこの短い言葉はコミュニケーション行為の構成要素を要点よくまとめているとともに、その研 究領域の広がりを的確に表現している。

南博の定義

マス・コミュニケーションがどのような要素から成り立っているかを比較的詳しく具体的に説明している研究者の一人に南博を挙げることができよう。彼は「コミュニケーションの伝達の仕方と、その送り内容、それを受けとる受け手の反応と、社会的な影響の総体をマス・コミュニケーションと呼ぶ」とマス・コミュニケーションを幅広い枠組みでとらえている。 ただ単に送り手とメッセージとチャンネルと受け手だけでなく、 それに伴う関連の動き全体をとらえた形で、マス・コミュニケーションを定義しよう とする姿勢が見られる。

マス・コミュニケーションの構成要素として、彼はまず「送り手」を挙げているが、直接受け手に伝える伝え手 だけでなく、企画・製作者も含むと幅広くとらえている。「媒体」についても、物理的・電気的媒体と、送り手段、送り方法によっても分類できると広義に定義している。「送り内容」は受け手に伝達される内容と定義している。

「受け手」は、送り内容に接触して反応を起こす読み手、聞き手、見手のほかに、 例えばNHKの視聴料支払い 拒否運動をしているような、受け取ることを拒否する反受け手や、受け取りたいが経済的理由などから受けられな 潜在的な受け手も包含する広い定義になっている。 次に彼は「受けとり内容」をマス・コミュニケーションの構成要素として独立にかかげている。これは「送り内容が受け手の意識内容になったもの」とし、あくまでも送り内容=受けとり内容でないことを鮮明化しようとしているのであろう。この点は南博の定義の特徴のひとつと言えよ う。さらに彼は「受けとり反応」と「社会効果」を設定している。前者は、受け手が接触中に起こす反応と、終わ ってからも起きる後反応の二点を指摘。 社会効果とは、後反応が再び起こる再生反応が反復し、積み重なったもの、と説明している。

南博はこれらの要素の全体的な動き、つまり総体をマス・コミュニケーションと定義している。マス・コミュニ ケーションを細密に、しかも総合的にとらえようとする方針がうかがえると言えよう。

マス・コミュニケーションの特徴とか構成要素 定義といったものを見てきたわけだが、それで機能について はマス・コミュニケーションはどのような機能を持っているのだろうか。一般的には、報道とかの分類教育、宣伝、娯楽などを挙げることができよう。

しかし、この機能について考える際、いろいろな角度があることに気づくであろう。つまり、分類の仕方の視 点である。例えば、その機能は「個人的機能なのか、社会的機能なのか」という視点である。あるいは「メッセージ内容がもたらす機能なのか、あるいはメディアそのものが持っている機能なのか」との問いかけも成り立つ。あるいは「顕在化している機能なのか、あるいは潜在化している機能なのか」との分類も考えられる。

例えば、ある夫婦がテレビの天気予報をつけっぱなしにしながら朝食を取っている。この場合、夫が会社に出かけるために傘を持っていったらよいか、あるいはその必要がないかを知りたい、という明確な目的があるケースがある。これは報道という顕在化している機能である。 しかし、テレビをつけっぱなしにしているのは、時には違った機能を持つ場合もある。 その夫婦が仲悪く、離婚一歩手前であったとする。テレビの音のために互いに話をしなくてもすむという潜在的な機能を持つわけである。これに関連して 「意図した機能と、意図していなかった機能」 いう分け方もあろう。

マス・メディアの社会的機能

ここではマス・コミュニケーションあるいはマスメディアの社会的な機能について焦点をしぼ っていくが、この点について最初に公にした研究者は政治学者のラスウェルである。

彼は、社会におけるコミュニケーションの機能として三点を指摘している。 第一は「環境への監視(査察)」(Surveillance of the environment)、 第二は「構成員の相互作用」 (Correlation of the response of the society to the environment)、第三は「社会的遺産の伝達」(Transmission of the social inheritance)である。

第一の環境への監視・査察とは、社会が変化に対して適応できるようにメディアがわれわれに早期に警告を発 するという意味である。監視、 査察によって、われわれはどうしたらよいかという意思決定に必要な知識を与えら れる。われわれに、生活している環境について情報を与えてくれるのはメディアをはじめ教育者や世論調査者らがいる。

第二の構成員の相互作用とは、環境に対して社会の反応を相互作用させるということで、これは世論を意味する。 マス・メディアは世論形成の機能を持っているという意味である。 とくに社会における重要問題について多数の人々 の具体的な見解を、マス・メディアは育てていく。 これは社会にとって非常に大切なことである。 大衆の中に理に かなったコンセンサス (総意)がなければ、政治は機能しない。世論形成にかかわっている人々は編集者やジャー ナリストや政治家たちである。 アメリカにおける世論調査の創始者の第一人者であったギャラップ (George H. Gallup) は「民主主義は、 大衆の意識が明らかである時こそ、もっともすぐれて機能する」という信念を一生を貫いて 抱いていた。世論を把握できてこそ、民主主義が成り立つのである。

第三の社会的遺産の伝達とは、社会の根底に横たわる価値観や規範といったものを今日、マス・メディアが伝達する機能をはたしている、という意味である。厳密にはマス・メディアだけでなく、親や教師もこの機能をはたしている。

ただし、昔は共同社会の中で自然にできた規範が共同社会の構成員たち同士で受け継がれてきた。しかし、今日では都市化現象が進み、小さな共同体の意識がくずれかかっている。その代替手段として、マス・メディアが失われた規範共有の機能を果たすことが観察される。今日では、マス・メディアが社会の基礎となる一般市民共通の関係枠をもたらしていると言えよう。

ラスウェルはこのようにマス・メディアの社会的機能として三点を指摘したが、一方ではマス・メディアが社会的機能をはたさない場合もあることを考えた。つまり権威的な政府がメディアを利用して特定の目的のために国民を誘導しようとする時などである。