マス・メディアが社会的機能をはたさない場合もあることを考えた。つまり権威的な政府がメディアを利用して特定の目的のために国民を誘導しようとする時などである。
この点を含めてもう少し具体的にマス・メディアの社会的な機能を指摘しているのはラザースフェルド(Paul Lazzarsfeld)とマートン(Robert Merton)の二人である。彼らも三点指摘している。第一は「社会的地位の付与の機能」(social status conferral function)、第二は「社会的規範の強制」(Enforcement of the social norms)、第三は「麻酔的逆機能」(Narcotizing dysfunction)である。
第一の社会的地位の付与の機能とは、とくに有名なマス・メディアが取り上げる人や物、できごとが社会的に重要であるという印象を人々に与えることである。「朝日新聞の一面や社会面のトップ記事に扱われるくらいだから、このできごとは大切なのだろう」と受け手は思う。「タイム」や「ニューズウィーク」のカカバー・ストーリーに取り上げられる人物だから、きっと重要な人なのだろうと信じる。
例えば、校内暴力事件が起きると、多くの新聞は事件の概況のあとに、教育評論家のコメントを載せる。すると読者は「あの有名なOO新聞が取り上げるのだから、この人はきっと教育界で大いに認められている人なのだろう」と思う。もともと限られた分野では知られた人であったかもしれないが、マス・メディアで取り上げられることによって門外漢の人々、一般の人々にも有名になる。このようにメディアは人や物やできごとに社会的な地位を与えるのである。それらを正統なるものとして扱うことになる。社会的に認知することになるとも言える。メディアが自ら支持する特定の人物や意思や集団を正統なるものとすることによって、受け手たちを組織的、社会的に動かすこともできるようになる。第二の社会的規範の強制は、マス・メディアが人々に社会の規範をたえず意識させる機能を持っていることを意味する。とくに規範から逸脱したケースを明るみに出すことによって、道徳、規範を人々に再認識させる。西部劇でも時代劇でも、一時は主人公があやうく敗れ去るかのような場面が出てくるが、最終的に立ち直って、正義が勝つという筋立てになっている。これは一種の道徳劇である。「やはり悪いことをすれば、最後は捕まって罰せられる」という意識になる。この場合、逸脱の事例を公にすることが大切である。社会的な差別の問題も環境汚染の問題も、存在していても何も報道されないと、地元関係者の人々の一部が解決をはかろうとしても、なかなかむずかしい。しかし、地元マス・メディアによって連続的に真正面から大々的に報じられることによって、その社会的規範からの逸脱に地元の人々や役所はだまっていられなくなる。人々は規範の枠の中に入るか、外へ出るかのどちらかの選択を迫られる。規範からの逸脱を示すことは、緊張を伴い、変化・復元への力が働く。人々は逸脱の修正を強く求められることになる。
第三の麻酔的逆機能とは、マス・メディアが社会に対してプラスの機能をはたさなくなるケースである。メディアが人々に洪水のようにある問題についての情報を与えると、人々は無気力的になるという説である。受け手のエネルギーはそがれてしまい、自らがその問題について行動、参画しようとする気が弱められる。「なるほどマス・メディアが言うとおりで、マス・メディアが指摘しているような段取りでこんご自然に解決していくだろう。自分が出ていく幕はないだろう」と現実はそんなに簡単ではないのにもかかわらず、思いがちになる。受け手は、情報を大波のように浴びせられると、刺激を受けるよりは麻癖させられてしまう。読んだり聞いたりしたものは、単なる知識に化してしまい、組織的な社会的な行動との関係が薄まり、行動の原動力になり得なくなってしまう。能動的な行動と参画が、受動的な知識にとどまってしまう。知識と行動とが遊離する。このようにマス・メディアが時には社会的な麻酔剤になってしまうという逆説的な機能もあると言えよう。
個人にもたらす機能
マス・メディアは社会的な機能だけでなく、個人にもたらす機能もある。第一は情報入手である。情報を得るということはこれからなすべき自分の行動の参考資料になる。とくに選挙において受け手の投票行動はマス・メディアに左右されやすい。第二は自我の確立。ニュースに登場する人物と自分とを比較することによって、自分の価値観を強めるなど自我の形成がなされてくる。
第三の個人的な機能は、マス・メディアが受け手に専門職的な指針、助言を与えてくれることである。例えば農業従事者にとっては天気の長期予報や、作物の新種、飼料の開発などの情報は自分の仕事に直接役立つ。第四は社会的な相互作用を容易にすることである。一種の交際言語で、最近のニュースの話題を朝の仕事の打ち合わせの前に語り合うことによって、続く本格的な仕事の話が円滑化される。第五は社会的相互作用の代替である。テレビの視聴者はテレビによく登場する人物と実際の相互作用をしているわけではないが、テレピにしばしば登場するおなじみさんであるので、視聴者にとっては互いにコミュニケーションを交わしている人物であるかのように親しみを感じる。かつてアメリカのCBSテレビの人気ニュース・アンカーマンのクロンカイト(Walter Cronkite)は視聴者たちから、大統領よりも親しみと信頼をおかれていたという。第六はマス・メディアは受け手に気晴らしゃくつろいだ気分を与えてくれる。退屈しのぎになる。第七は緊張や疎外感をやわらげてくれたり、解消してくれたりする。第八は生活を規則正しくしてくれる。いつも午後七時のテレビ・ニュースを見るということで生活にリズムができ、習慣化される。同じことを何回もくり返すということは宗教的な儀式にも通じるところがある。それは心の安寧をもたらす。寝る前にちょっとした軽い読みものを読む習慣を持っている人は、おそらくそうすることによって眠りに入りやすいのであろう。
マス・コミュニケーションの効果
マス・メディアやマス・コミュニケーションは社会的にも個人的にもいろいろな機能を持っているが、それではどのような効果を持っているのか。われわれにどのような影響を与えているのか。マス・メディアの効果の研究の歴史はアメリカがもっとも古いと言えるが、それはそれぞれの時代のニーズによって盛んになってきたと言えよう。例えば1930年代ごろには映画が子どもたちに与える影響の研究が開始されている。アメリカではラジオ放送が1920年に開始されており、30年代では各家庭ではラジオを囲んで一家団らん(鍵)のひとときが持たれるなどラジオ中心の生活だった。ラジオは最初からコマーシャルでまかなわれてきたために、30年代はラジオ広告の効果の研究が盛んになってきた。
一方、第二次世界大戦中は戦争宣伝の研究が促進された。これはイギリス、ドイツ、日本、イタリアでも同じである。戦後はテレビの登場によって、テレビ・コマーシャルと商品の売り上げ実績の相関関係やテレビの暴力番組と子どもたちとの関係などの研究が始まり、フェミニズム運動の台頭に伴って、メディアにおける女性像の研究が盛んになってきた。また政治報道の偏向への批判が高まると、政治ジャーナリズムや政治コミュニケーションの研究が重視されてきた。これらはいずれも、どれほどマス・メディアがそういった問題点にかかわっているかという効果の研究でもあったと言える。マス・コミュニケーションやマス・メディアの効果は単純ではない。刺激を与えれば、すぐそれに反応するという簡単な図式ではないのである。皮下注射的に直接すぐ効果が出るというわけでない。テレピの暴力番組を見た子どもがただちに暴力的な人間になるのではない。同じテレピ番組を見ていても、すべての視聴者に同じ効果が現れるとは限らないのである。一人ひとりの知識、習慣、関心や社会・文化環境によって効果の度合いは異なる。なぜマス・コミュニケーションの効果は複雑かというと、それを取り巻くさまざまな外部の要因によって状況が異なるからである。マス・コミュニケーションが直接的な効果の作用因になる場合もあれば、外部の要因によって作用することもある。例えばある政治記事は、それについて何も知らない人よりもすでに関連の知識を持っている人の方へより強い影響を与える。マス・コミュニケーションが寄与的な作用因になる場合もある。あるできごとについて自分なりの意見を持っているのに、マス・メディアの報道に触れることによって、強まったり、弱まったりする。また、ある効果を生じさせるのにマス・コミュニケーションが必要条件だが、決して十分条件ではない場合もあれば、逆に十分条件だが、必ずしも必要条件でない場合もある。例えば前者の例として、カッツ(Elihu Katz)とラザースフェルド(Paul Lazzersfeld)の「コミュニケーションの二段階の流れ」などを考えることができよう。つまり、ファッションや新薬の普及の場合、マス・メディアによるパプリシティだけでは十分でなく、メーカーと消費者との聞にオピニオン・リーダーの存在が必要である。新薬はいったんオピニオン・リーダーとしての専門の医師たちに認知されたあとに、薬局や消費者へと普及していく。ファッションも、ファッション関係の評論家や流行に目ざといリーダー格的な消費者たちによって、最初に広められ、そのあと第二段階として一般の消費者へ広がっていく。このようにマス・メディア以外にそれぞれの分野にオピニオン・リーダーが必要になる。後者の例としては、ある人はテレビによってあすのある航空会社のストの予定を知る。その限りではマス・コミュニケーションは十分条件である。しかし別の人はたまたまその会社の前を通った時、張り紙やピラで知ったという場合もあり、かならずしもマス・メディアを介さなくても知る機会があり、その意味では必要条件ではない。このように、マス・コミュニケーションの効果を考えるさい、まわりの状況によっていろいろ変わってくる。その意味ではクラッパ(Joseph T. Klapper)は「メディアはあるものを直接変化させるよりは、現在の考えや価値観を補強(reinforcement)する傾向がある。しかし、人がすでに現在の考えや価値観に満足できずに変化を求めることに取りつかれている場合は、変化を生じさせる」という意味のことを述べているのは、うなずくことができよう。さらに効果といっても、短期的に現れるものがあれば、長期的に現れるものもあるなどさまざまである。阪神大震災のような大事件の報道は、アッという聞に衝撃的な効果を与える。一方、長期的な効果は、すぐ目につかないが、徐々に深刻な状態にまで達していく。例えばあいつぐ官僚の不祥事が報道されると、国民の政府への信頼感がしだいに損われてくる。
沈黙のらせん理論
マス・コミュニケーションやマス・メディアが人々に影響を与えるかどうか、という問いかけはとかくイエスかノーかという点だけを明らかにしようという姿勢になる。それも大切ではあるが、もう少し幅広い枠組みで人とメディアとの関係を考えてみる必要があるだろう。人はどのような状況の時に、メディアとの接触をも伴って、どのような行動に出る場合があるのか、それはどうしてなのか、という視点で人とメディアとの関係を見てみるのは大きな意義があろう。例えば「沈黙のらせん」理論(The spiral of silence theory〉と名づけられている理論がある。ドイツの研究者ノエル・ノイマン(Elizabeth Noelle-Neumann)の説で、メディアがある期間ある問題について一貫した姿勢を示すと、人々の意見もその方向に従う傾向が出てくるという内容である。人は孤立するのを恐れるあまり、多数派意見に従っていく。自分の意見が多数派意見と違っていても、自分の意見を声高に言おうとしない。メディアの意見と違う意見の人々は自然にだまり込んでしまう。メディアの意見に賛成な人はさらに声高に意見を述べる。そのため、一般の人々がはじめは何を考えていたかは関係なく、当初のメディアの立場に向かってますます意見が強まっていく。人々は他の人々がどういう考えを持っているか直接知る手段がないので、メディア情報から推測する。メディアの意見と異なる意見の人々はますます沈黙を保つ。これは世論が形成されていくさいの社会的な心理を物語っている。
議題設定理論
「議題設定」理論(The Agenda Setting Theory)も注目されている理論のひとつである。沈黙のらせん理論は、ある問題についてどう考えるかについてマス・メディアが人々に与える影響力を扱っているのに対して、マツコームス(Maxwell E. McCombs〉らが説く議題設定理論は、人々がどのような話題、問題、テーマについて考えるかについてマス・メディアがおよぼす影響力について扱っている。マス・メディアがある問題について取り上げる量が多ければ多いほど、人々はそれが重要なテ!マであると思うようになる。とくに選挙など重要なできごとについては、新聞を中心としたマス・メディアの情報量によって形づくられる。新製品を開発したさい、マス・メディアでその話題を盛んに取り上げてくれると普及に役立つ。一時、健康食品ブームが起きたことがあったが、その当時のマス・メディアの情報量に相関的な関係があったといえよう。
