「コミュニケーションとは何ですか」と関われると、それに答えるのは多くの人々にとってかならずしもやさしくない。なぜならば、ふだん誰もが日常的にコミュニケーションにたずさわっているからであろう。コミュニケーションなしに生活するのがほとんど不可能なくらい、

コミュニケーションはわれわれの日々の生活に密着している。われわれはコミュニケーションに浸りきっているために、まるでそれを空気のように、当然あるものと考え、あらためてコミュニケーション行為とかコミュニケーション環境というものを冷静に、真剣に見つめ直してみようとすることをあまりしないのではないだろうか。しかし、コミュニケーションほど、この世の中にとって大切なものはない。人聞が生きていること自体がコミュニケーションの行為と言っても過言ではないだろう。世の中を構成しているもっとも基本的な要素はコミュニケーションである。コミュニケーション、そしてそれから派生しているマス・コミュニケーションについて学ぶことは、われわれの生きている現代社会の特徴を知るのに大いに役立つ。また過去の理解にも、また来たる次の社会にどう生きていくかという大きなテーマにも関連することを知ることになるだろう。

マス・コミュニケーションの中で送り手側のマス・メディアの影響力が大きいために、われわれはマス・メディアこそがマス・コミュニケーションの「主役」であると思いがちである。しかし、根本的には受け手のわれわれの支持なしにマス・メディアは存在し得ない。その意味では、われわれ受け手も送り手と同じぐらい大切な「主役」であるとの自覚が必要であろう。

コミュニケーション時間の点検

現代人は何らかのメディアが身の回りにあるので、情報や娯楽の入手にあまり支障をきたしていない。メディアへの接触になれきっているので、メディアの機能に対してナイーブになっている。メディアの働きを理解するためには、まず、最初にわれわれが毎日各種のメディアにどれほどの時聞を使って接しているのか、その実態を知る必要がある。一般に日本では一日の平均的な新聞の閲読時間が約40分と言われている。しかし、はたして自分自身はどうなのか調べてみるとよい。新聞だけでなくテレピや他のメディアについてはどうなのか。起きてから寝るまで例えば10分きざみで、自分がどのようなメディアに接しているのか、どのようなコミュニケーションを行っているか、メモを取ってみると、ふだんあまり意識していなかったことに気づくかもしれない。朝起きてすぐ家族とあいさつ。テレピやラジオをかけながら朝食を取る。朝刊をサッと見る。駅へ向かう。店の看板が目に入る。ホームでは駅員がマイクで電車の到着案内をしている。学校に着くと友だちに会う。昨夜のプロ野球の話をする。授業が始まり、先生の講義に耳を傾ける…といったように、いろんなコミュニケーションにかかわっている自分の姿にあらためて驚くことであろう。アメリカでは平均的な成人にとって、起きている時間のうち、会社や学校へ行ったり、食事をしたり、家事の仕事や洗面など身の回りの整理整とんを行ったりする以外の自由時間が週に三四時間あり、少なくともその半分(七時間強)は何らかのマス・メディアに接触していると言われている。

意義深いコミュニケーションの語源

コミュニケーションにはいろんな定義が試みられている。コミュニケーションとは簡単に言えば、個人の間で、意思や意味を伝える過程である。もちろん人間以外にもコミュニケーションは存在する。ハチの群れや鳥の群れを見ると、仲間同士で何らかのコミュニケーションをはかりながら行動していると思わざるを得ない。魚の仲間にもそれなりのコミュニケーションがあろう。ワープロやパソコンを打つ際、人間と機械との聞にもコミュニケーションが存在すると言えよう。しかし、ここでは人間同士のコミュニケーションに限定して考えてみる。

ヒューマン・コミュニケーション、つまり人間間のコミュニケーションでは、一定の記号を媒介にして、自分の意思や感情や情報などを表現し、相手に伝えている。人間と人間とを結びつけているのがコミュニケーションである。送り手はいつも送り手側で、受け手はいつも受け手側であるとは限らない。受け手が次の瞬間、送り手に転じる場合もある。相互に作用し合っている。これは社会を形成している基礎単位と言えよう。コミュニケーションなしに社会は成立せず、社会なしに人聞は一人で生きることは不可能である。そもそもコミュニケーションという言葉はコムニス(communis)というラテン語に由来すると言われている。つまり「共通な」という意味である。「赤いボールペンを貸して下さい」と頼まれた時に、「アカイ」とか「ボールペン」「カシテ」「クダサイ」という発音が具体的にどういう意味を持つのか分からなければ、貸すことができない。送り手と受け手との聞に、同じ意味を共有し合ってこそ、コミュニケーションが成り立つのである。これは社会成立への過程と言える。コミュニケーションは人間と人間との聞に共通性を打ち立てる行為である。人間と人間とを結びつける。そこに社会や文化が成り立つのである。

視点で異なる定義

コミュニケーションという言葉は日本では一時、通信とか通報、伝達という言葉に訳され、用いられたことがあるが定着せず、今日ではカタカナ表記になっている。コミュニケーションを定義しようとするさい、その人の研究領域によって視点が異なる。例えば心理学者の定義の場合は社会学者の定義よりもせまい視点で定義づけが行われていると言えよう。つまり、ホヴランド(C.I.Hovland)は、送り手が受け手の行動を「変容」するために言語シンボルなどによって刺激を伝達する過程をコミュニケーションととらえている。「変容過程」としてのコミュニケーションである。また同じく心理学者のオズグッド(C.E. Osgood)は「影響過程」としてコミュニケーションを定義づけている。これに対して、社会学者の視点は幅広い。社会全体の展望の中でコミュニケーションを定義づけようとする姿勢が見られる。つまり、アメリカにおけるコミュニケーション研究の第一人者であったシュラム(W. Schramm)やクーリー(C.H. Cooley)らはコミュニケーションを「人間関係」を成立させるものとしてとらえている。ハートレイ夫妻(E.L. Heartley & R.E. Heartley)はコミュニケーションを基本的な「社会過程」(社会関係)として受けとめている。

このように、コミュニケーションの定義をしようとするさい、その人の研究の専門分野によって視点が異なってくると言えよう。

学際領域の研究

コミュニケーションへの関心は心理学者と社会学者だけではない。さまざまな学問の交差する場で成り立っている。いわゆる学際領域の学問である。ションの関連領域はさまざまで、例えば生理学、心理学、社会学、社会心理学、文化人類学、政治学、経済学、言語学、歴史学、法学、論理学、哲学、記号論、情報論、システム論、病理学、看護学など幅広い領域にわたっている。

バールスン(Bernald Berelson)はかつて、アメリカのコミュニケーション研究には四つの大きな流れと六つの小さな流れがあると指摘した。大きな流れとは、後の研究者に大きな影響力を与えたという意味だが、四つの流れの代表者は、①政治学者ラスウェルらの内容分析、②ホヴランドらの実験心理学的な研究、③ラザースフェルドらの社会学的な研究、④ルーウィンらの社会心理学的な研究、である。つまり、政治学、社会学、心理学、社会心理学が主流であった。これに対して6つの小さな流れとは、ジャーナリズム的な視点の研究や、コミュニケーション文化史的な研究とか精神病理学的な研究やその他で、これら全部を合わせると、いかにコミュニケーションの研究が、いろいろな角度から多数の学問を動員しながらなされてきたかが分かるだろう。一人の人間がそのすべての領域に精通することは非常にむずかしいが、全体を展望する目を持ちながら、自らの関心領域を究めていく姿勢が求められよう。

異なるコミュニケーション段階

そもそもコミュニケーションにはいろいろな段階がある。第一は個人内コミュニケーション(intra-personal communication)である。独り言のように自分一人の中でのコミュニケーション行為である。第二は対人、あるいは個人間コミュニケーション(inter-personal communication)で、これはふつう友だち同士が多くの場合、対面的にコミュニケーションをはかるものである。第三は集団間コミュニケーション(inter-group communication)。労使の交渉とか、政党同士の論争とか大学の弁論部同士の討論などがこれに当たる。第四はマス・コミュニケーション(mass communication)である。一人対一人ではなく、多くのコピーを不特定多数の人々へ伝える行為を意味する。第五は異文化、国際コミュニケーション(intercultural and international communication)である。文化圏や国境を越えてのコミュニケーションである。伝える相手は不特定多数の場合も、個人の場合もあり得る。このようにコミュニケーションにはいろんな段階が存在する。