私たちは日々、多くのニュースに触れて生活している。新聞を読み、テレビのニュース番組を見て、インターネットの記事に目を通す。こうした情報の流れは、現代社会において当たり前の存在になっている。しかし、その「ニュースを伝える営み」がどのような思想や歴史の上に成り立っているのかを考える機会は、意外と少ない。

ニュースを社会に伝える活動を一般に「ジャーナリズム」と呼ぶ。だが、この言葉は単に情報を広く伝える行為を意味するものではない。ジャーナリズムとは、社会で起きている出来事を記録し、それを多くの人々に伝え、時には評価し、批判し、議論を生み出す営みでもある。

この点を理解するためには、まず「マス・コミュニケーション」と「ジャーナリズム」という二つの概念の違いから考えてみる必要がある。


マス・コミュニケーションとジャーナリズム

現代社会には、膨大な情報が流れている。テレビ、新聞、雑誌、インターネットなどの媒体を通じて、多くの情報が同時に多数の人々へ届けられる。このように、大量にコピーされた情報を不特定多数の人々に伝える活動は、一般に「マス・コミュニケーション」と呼ばれる。

しかし、マス・コミュニケーションとジャーナリズムは完全に同じ意味ではない。マス・コミュニケーションは、広く情報を伝える仕組みそのものを指す言葉であり、そこには娯楽番組、広告、ドラマ、音楽番組などさまざまな内容が含まれる。

それに対してジャーナリズムは、より限定された意味を持つ。ジャーナリズムとは、社会で起きている出来事、つまり「ニュース」を社会に伝える営みである。言い換えれば、社会の現在を記録し、それを公共の場に提示する活動だといえる。

この違いを説明する際にしばしば指摘されるのが「ニュース性」という概念である。


ジャーナリズムの核心―― ニュース性

ジャーナリズムを成立させる条件について、メディア研究者の 和田洋一 は興味深い指摘をしている。彼によれば、ジャーナリズムには二つの基本条件が必要である。

第一に、伝えられる内容が「その日その日に起きた出来事」と関係していることである。第二に、その出来事が比較的短い時間のうちに、多くの人々に伝えられることである。

つまりジャーナリズムとは、「いま起きていること」を「できるだけ早く社会に伝える」営みなのである。

たとえば、ある人物の日記が死後に出版されたとしよう。その日記は当時の社会を記録した貴重な資料かもしれない。しかし、それはもはやニュースではない。時間の流れの中で、その出来事は「現在の出来事」ではなく「過去の記録」になっているからである。

この点から見ると、テレビというメディアの位置づけも少し複雑になる。テレビはニュース番組を放送しているが、同時にドラマやバラエティ番組など娯楽番組が大きな割合を占めている。そのため、テレビ全体をジャーナリズムと呼ぶことには慎重な見方もある。

しかし一方で、新聞や雑誌も必ずしもすべての記事がニュースではない。芸能記事や娯楽記事も掲載されている。このことを考えると、ジャーナリズムを「ニュースだけ」と厳密に定義することも難しい。

結局のところ、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのメディアは、程度の違いはあっても広い意味ではジャーナリズムの活動を担っていると考える方が自然であろう。


ニュースには必ず「視点」がある

ジャーナリズムの特徴を考えるうえで、もう一つ重要な要素がある。それは「送り手の視点」である。

マス・コミュニケーションが単に情報を大量に流す仕組みだとすれば、ジャーナリズムは情報の選択や解釈を伴う営みである。つまり、どの出来事をニュースとして取り上げるのか、どのような角度から説明するのかという判断が必ず存在する。

現代のジャーナリズムは、しばしば「客観報道」を理想として掲げている。しかし、完全な客観性が存在するかというと、それは極めて難しい問題である。

想像してみてほしい。ある事件が起きたとする。その事件を十人のジャーナリストが取材すれば、十通りの報道が生まれる可能性がある。誰に取材するのか、どの事実を強調するのか、どの背景を説明するのかによって、記事の構成は微妙に変化するからである。

つまり、ニュースには必ず何らかの「視点」が存在する。現代のジャーナリズムは、その視点をできるだけ目立たないように抑える努力をしているにすぎないのである。


主観的ジャーナリズムの時代

実は、ジャーナリストの視点を前面に出すことが普通だった時代もある。むしろ歴史的に見ると、ジャーナリズムはもともと非常に主観的なものであった。

日本では、明治初期がその典型的な時代である。1874年、政治家の 板垣退助 らが提出した「民撰議院設立建白書」をきっかけに、自由民権運動が広がった。この運動の中で、新聞は政治的な議論の中心的な舞台となった。

当時の新聞は、現代のような中立的な報道機関ではなく、明確な政治的立場を持っていた。新聞は政党の機関紙として機能し、それぞれの主張を社会に訴えていたのである。

たとえば、自由党を支持する新聞、改進党を支持する新聞、帝政党を支持する新聞がそれぞれ存在し、政治的論争を紙面上で展開していた。新聞は「天下国家を論ずる」メディアだったのである。

しかし、1890年に国会が開設され、議会政治が定着すると状況は変わり始める。政治的議論の舞台が議会へ移り、新聞は次第にニュース報道を中心とする媒体へと変化していった。


アメリカの新聞史と客観報道

同じような変化は、アメリカでも見られる。

1776年に独立したアメリカでは、新しい国家のあり方をめぐる激しい議論が起こった。連邦政府の強い権力を主張するグループと、地方自治や個人の自由を重視するグループが対立したのである。

前者の代表が政治家の アレクサンダー・ハミルトン であり、後者の代表が トマス・ジェファーソン であった。

彼らは自分たちの主張を広めるために新聞を利用した。新聞は明確な政治的立場を持つメディアとして機能していたのである。

しかし19世紀になると、新聞の性格は大きく変わる。1830年代に「ペニー・プレス」と呼ばれる安価な新聞が登場した。これは一部1セントで販売され、労働者や移民など広い層の読者を対象とした新聞である。

この新聞は政治論争よりも事件報道や社会ニュースを中心に掲載した。こうして、客観報道を重視する近代的な新聞のスタイルが生まれていった。


ジャーナリズムと社会

ジャーナリズムの本質について考えた思想家の一人に、ジャーナリストの 長谷川如是閑 がいる。

彼はジャーナリズムを「社会集団の対立意識の表現」と説明した。社会にはさまざまな立場や価値観が存在し、それらが互いにぶつかり合う。その対立を社会に可視化する役割を担うのが新聞であるというのである。

また哲学者の 戸坂潤 は、新聞の本質を社会的機能の中に見いだした。新聞は社会の条件の中で生まれ、その社会に応じた役割を果たす存在だというのである。

この考え方は非常に重要である。ジャーナリズムは固定されたものではなく、社会の変化に応じて姿を変えるからである。


客観報道の時代

現代のジャーナリズムが客観報道を重視する理由も、社会構造の変化と関係している。

かつて新聞は、政治や社会問題に強い関心を持つ限られた読者層に向けて発行されていた。しかし現在では、新聞やテレビは不特定多数の大衆を対象とするマスメディアとなっている。

読者や視聴者の価値観は多様である。そのため、特定の立場を強く打ち出すよりも、誰でも受け入れやすい形で情報を提示することが求められる。こうして「客観報道」という理念が広く支持されるようになったのである。

しかし、ここで忘れてはならないことがある。それは、どれほど客観的に見える報道であっても、そこには必ず送り手の視点が存在するという事実である。

ジャーナリストもまた一人の人間であり、その人の経験、教育、思想、社会環境によって世界の見方は変わる。その違いは完全には消えることはない。

ニュースを受け取る私たちは、そのことを理解した上で情報を読み解く必要がある。


「ジャーナリズム」という言葉

最後に、この言葉自体について触れておこう。

ジャーナリズムという言葉はラテン語の「ディウルヌス」に由来するといわれている。これは「一日の」という意味を持つ言葉であり、そこから「日々の記録」という意味の「ジャーナル」という言葉が生まれた。

日本ではこの言葉の翻訳がいくつか試みられた。

たとえば新聞研究者の 原田棟一郎 は「新聞道」という訳語を提案した。彼はジャーナリズムを単なる職業ではなく、武士道のような倫理を持つ精神的な営みとして理解していたのである。

また物理学者で随筆家の 寺田寅彦 は「日々主義」という訳語を提案した。ジャーナリズムは「その日その日を記録する精神」であるという意味である。

しかしこれらの訳語は定着せず、現在ではカタカナの「ジャーナリズム」という言葉がそのまま使われている。


情報社会を生きる私たちへ

現代はかつてないほど情報があふれる時代である。インターネットの登場によって、誰もが情報の発信者になることができるようになった。

しかし、そのような時代だからこそ、ジャーナリズムの意味を改めて考えることが重要になっている。

ジャーナリズムとは単にニュースを伝える仕組みではない。それは社会の出来事を記録し、議論を生み出し、社会の方向を問い続ける営みである。

そして同時に、それは常に人間の視点を伴う営みでもある。完全に中立なニュースは存在しない。私たちはそのことを理解しながら、多様な情報に向き合う必要がある。

ニュースを読むこととは、単に出来事を知ることではない。それは社会を理解し、自分自身の視点を育てる行為でもあるのである。